寂しさのゆくえ 〜idiotapeさんへの私信〜

そのうちに
いずれまた
この寒さにも
慣れてゆけるだろうに

今のこの瞬間の寒さが
容赦なく僕を破壊する

あれほどまでに幸いだった
思い出をかき集めて温めるも
このまま眠ってしまいそうだよ

 僕のウェブライフにとって、id:idiotapeさんのブログはこれからも忘れらることはないでしょう。epoch-makingとなった「ある個人史の終焉」はあらゆる意味で話題が大きくなり過ぎてしまいました。それは心から遺憾に思います。この一件はWEBに於ける儀礼的無関心という言葉を久しぶりに思い出させました。個人的には9月末の時点で「このブログを閉鎖するかもしれないことについて」を読んでいましたので、閉鎖の予感とその覚悟はしていたつもりでした。お別れのつもりで最初で最後になるからと、その悲しい記事に思い切ってコメントを残したのも今では大切な思い出です。そのとき、実は密かに考えていたことがあります。

もしも、このブログがまだ続いてくれるなら、僕も、はてなでブログを始めよう

 あの後は主に、教育関連の記事やご両親について綴っていましたが、それらは時に切なく、時に深く突き刺さり、読んでいるうちに心が飽和していって、ブログを書くにも自分から言葉を産み出す力が出てこなっかったのを思い出します。
ところが「私家版 世界十大小説」「アメリカ短編小説二十選(勿論私家版)」を見て、僕の中でなにかが弾けるのを感じました。僕が当面はてなで書く方向性を指し示してもらったような気がしました。今、なにより心残りなのは、そのきっかけとなったこれらの記事をローカル保存しなかったことです。
 あれこれと書きましたが、僕は多くの方が指摘をしているような文章表現の美しさもさることながら、時々見せる繊細さと弱さになによりも魅力を感じていました。いつも謙虚さを忘れず、控えめでありながらも、内から湧き上がる書くことへの情熱、苦悩そして書くことでの癒し、それらの生々しさをもった文章が好きでした。非常に残念ではありますが、なにをおいても、idiotapeさんがidiotapeさんであれるように生きられるのなら、その進む道を応援します。その先に多くの幸いがあることをお祈りしています。
最後に、僕が決定的にidiotapeさんをリスペクトすることになった文章を転載させて下さい。*1

言葉は対称的なものとして、意味が記憶によって担保されると我々が思い込んでいるとき、言葉によって僕らは大いに傷つけられる。自分が言ったと思い込んでいることが、これほどまでに通じないのは、相手が馬鹿だからではないし、自分が言葉を使うのを下手だからでもない。言葉は本来、非対称的な存在なのだ。こちらが言った言葉と、相手が受け取る言葉は、空気という対称点を通過した瞬間、光の粒子の中で拡散していく。彼らはお互い、相手の言っていることが間違っていると言い張るが、その間違っている様こそが、「言葉が伝わるということ(あるいは伝わらないと言うこと)」の実感を本当によく伝えてくれる。言葉は結局伝わらない。だが、絶望する必要もない。時にあまりにも見事な震動のために、近くにいると耳が潰れそうな響きに思えたあの鐘の音が、いつか初めてキスを交わした高台で聞いた時、どこまでも澄んだ音色を持っていることに我々は突然気づくからだ。

*1:不適切であれば即刻削除します