ぼくもまたぼくを肯定したい

先日の記事は、ほんとはid:heiminさんみたいな写真日記にしたはずなのに、
方向性が違ってしまった。
あのセンスは真似できるもんじゃないよねJK。
最新記事の「俺が俺を肯定する」は名文中の名文。

否定、否定、否定、否定、の繰り返しの中で、結局のところ最後には「俺が俺を肯定する」と、嘘でも自分自身に対し強く言いきっておかないと、ぼくらはどこにも歩き出せない。ぼく、と書くところを「ぼくら」と書いてみたのは、ぼくはもしかしたらそれなりにいるかもしれない「ら」にあたる人たちに、自分のことばを届けたいと思ったからだ。

平民新聞「俺が俺を肯定する」

ぼく「ら」のなかに自分も含まれているとシンパシーを感じたし、
この胸に届いたぼく「が」抱いたメッセージをまた発信したい。
そう思わせてくれる。


最初のフレーズが最後でリピートされているところもまた、
パントゥーム*1に似た効果を出している。
つまり、本来別個であるはずの複雑なイメージが結合され、
個々が持つ(或いは抱かせる)イメージによる表出を、
より鮮明に際立たせているように思う。
まるで四葉の写真が離散的であるかのように。

事実以上のものをぼくの写真は発する事が出来ているのだろうか。

ここで述べられている事実は、普遍的な現実なんかではなく、
ありふれた人のありふれた日常が、
ありふれたままの状態で切り取られたとき、
意味を超えた意味を「感じる」ことではないだろうか。


そして感じることができたぼくもまた、
ぼくを肯定したいと思うのだ。

*1:pantoum。各連の2・4行目が次の連の1・3行目にそのまま使用されるという形式にする詩の技法。元々はマレー文学にあった定型式。西欧のロマン派の詩人たちや西洋音楽の詞に好んで用いられた