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甘い淡い記憶

tale

慌てて乗り込んだエレベータにその彼女がいた。
重量制限ぎりぎりの乗客を乗せたエレベータはゆっくりと上昇し、
各階に停止するたびに、乗客は無言のまま足早に我先に降りていった。
彼女は5階で何人かの同僚の女性と降りた。
それまでの間のおよそ30秒、斜め後ろ45度から彼女の横顔を盗み見していた。
何故だろう。懐かしい気持ちになったのは。
初めて見たときから、彼女は僕の目には特別な光を放っているように見えた。
勿論、そんな光は実際にはなかったし、彼女は目立つタイプでもなかった。
こざっぱりとした服装、無造作にまとめた髪、薄めのメイク、どれも平凡そのものだった。
もやもやとした気分の晴れぬまま、8階でエレベータを降りた。
なんとか朝礼には間に合いそうだ。
 
 
次に彼女を見かけたのは、数日後の会社の休憩室だった。
僕の会社は1階に美容院があるビルの2階から8階のほとんどのフロアを占めていて、
各階では、それぞれ全く別のクライアントの仕事をしているので、顔を合わせることはない。
もし会うとすれば、エレベータか、2階にある共通の休憩室のどちらかだけだった。
同じ会社の人かどうかを見分けるには、首に下げたストラップの色と会社のロゴで判断するしかなかった。
エレベータで見かけた彼女は黄色のストラップを下げ、
休憩室の中央に陣取っている同じ色のストラップの集団の中で昼食をとっていた。
僕は彼女に気付かれないように、斜め前45度の席に座り、読みかけの芥川の短編を読み、時々、彼女の談笑している顔を見て、懐かしい気持ちになる理由を探していた。
 
 
近代社会を皮肉った「河童」を読み終え、斜め前45度を見ると彼女はもうそこにいなかった。
振り返って休憩室の入り口を見ると、彼女が出て行くところだった。
一瞬追いかけようとも思ったが、声を掛けるきっかけになりそうな言葉は、
どんなに考えても「オツカレサマデス」しか見つからない。
僕は諦めて席に残り、芥川の遺作となった「歯車」を読み始めた。


日々の忙しさに埋もれ、平凡な女性のことも忘れてしまった頃、今度は電車で再会した。
その日は久々に夕方18時で終わるシフトで、夕方の通勤ラッシュの中に彼女を見つけた。
彼女はぎりぎりに乗ったのだろうか、ドアの真ん中に寄りかかりながら、車窓の外の流れる景色を眺めていた。
今度こそ声を掛けようと思ったのだが、おそらく彼女は同じ会社だと知らないだろうし、
かといって、混み合った電車でいきなりストラップを取り出して見せたところで、
「いつから私のことを知っているの?もしかしてストーカー?」などと勘繰らそうな気がして、今回も諦めた。
しかし、収穫がなかった訳ではなかった。
 
 
彼女は驚いたことに、僕と同じ駅で降りた。同じ街に住んでいたのだ。
彼女は改札を抜けた後、すぐ左にある階段を駆け降り、バスターミナルへと向かった。
どうやら駅からは遠いらしい。これ以上後を追うと本当にストーカーになるので、
僕はターミナルではなくとは反対方向にある自分の家へと向かった。
 
 
途中のガード下の道なりに小さな駅前商店街があり、その中のひとつに昔よく通ったパン屋があった。
そのドイツパン専門店はハードパンが充実していて、調理パンメインの有名他店より好きだった。
夕方に行くといつもレジにいる可愛らしい店員さんがお釣りを両手で丁寧に渡してくれるのも嬉しかった。
3年前のある日、当時つきあっていた彼女とその店に行った。
彼女もその店員を気に入ったらしく、まだ店を出ない内に「ここの店員さん、かわいいわねー」とはしゃぐように言った。
僕は慌てて「しーっ!聞こえちゃうよ」と制した。
彼女は笑って言った「なに真っ赤になってるのよ」
しかし、その店員はいつしか、見かけなくなり、僕もその店に通うのをやめてしまった。


家路を歩きながら、僕はその店員と、あの平凡な女性が似ていたことに気付いた。
そうか。あの店員に似ていたから、懐かしい気持ちになったのか。
もやもやがようやく晴れて、すっきりとした僕は気付くと口笛を吹いていた。
ドイツパンの店ではいつもFM放送が流れていた。
通っていた当時に流行っていたミスチルのメロディが頭の中で繰り返されていた。
 
 
翌日の昼休みに休憩室に行くと、混んでいる中に、ひとりでパンを頬張っている同僚の女性を見つけた。
向かいの席を指差し「ここ座っていいですか?」と了承を得てから、椅子に腰掛けた。
同僚の女性は中途入社の僕より長く勤めていて、年は若かったが優秀で僕の上司でもあった。
他愛のない会話をしているうちに、例のパン屋の店員によく似た彼女が数人と共に休憩室に入ってきた。
「話は変わるんですけど、あの黄色ストラップの中のオレンジのシャツ着た彼女、見たことありますか?」
「ああ、私、知ってるよ。同期だからあの子と入社研修一緒だったの」
「そうなの?」
「結構積極的に発言する、頭が良さそうな子だったよ」
「へえ。僕は最近存在を知ったばかりなんだけど、昔好きだった近所のパン屋の店員さんそっくりでね」
「好きだった?ふーん・・・ああいう顔が好みなのね」
「うん、わりと、ね。昔よくそのパン屋に通ったんだ」
「女の子目当てで?」
「それだけじゃくて、パンもおいしかったからだよ」
「まあ、どっちでもいいけどw」
「可愛かったなあ、あの店員さん・・・。名前はなんていったけなあ。たしか・・・Nさん」
「えっ!・・・彼女の名前もNだけど」上司はそう言って黄色ストラップの彼女を指さした。
僕はその指さした先にいる彼女の顔をあらためて眺めた。
奥二重か一重で切れ長の黒目がちな目、色白で少しピンクがかった頬、セミショートの黒髪。
「そういえば、この前、帰りの電車で同じ駅で降りたのを見かけたし・・・」
「じゃあ、そうなんじゃない?!嘘みたいな話ね」
信じられないのは、僕も同じだった。
 
 
パン屋の店員と分った後も、相変わらず話掛ける言葉が見つからなかった。
「Nさんですよね?僕、昔よくパン屋さんに通ってたんです」と言ったところで、
何故名前を覚えてるのか理由を尋ねられるのが怖かった。
あれから何度か駅や電車で見かけたが、顔見知りというだけで挨拶するのは勇気のいることだ。
結局、偶然はなにひとつドラマチックな展開もうみださないまま、僕の転勤によって終焉を迎えた。
 
 
「もしも」と考えるのは楽しい。宝くじを買った後はいつも淡い妄想を巡らせる。
しかし、実ることになかった恋に、もしもはない。
あるのはどうしようもないくらい美化された甘い記憶の香りだけだ。