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閉ざされた過去

essay

近頃よくあることだが、目覚まし時計でセットした時刻よりもほんの数分早く目が覚めた。数日前までのような蝉の合唱も収まり、寝室は静まり返っていたせいか、既に日は高かいというのに意識はすぐにははっきりとせず、ぼんやりと未だ覚えている夢の内容を辿り直し、反芻していた。突拍子もない破天荒なファンタジーな内容のことも少なくないが、今朝の夢は実に生々しい感じがした。ただ、時代設定がずいぶんと古いようだった。本来であれば学生服を身に付けているところだが、服装や見ているはずの色や風景などは一切浮かんでこない。そこはいつもと同じだった。大抵の場合、細かな背景は実に曖昧な中、自分の思いだけが強烈に存在し、矛盾に満ちたストーリーを強引に紡いでいく。夢の世界では、史実に基づく時代考証や常識などに囚われることなく、自由設定で事が運んでいく。それなのに、今朝の場合まるで勝手が違っていた。長いこと忘れていた人たちの懐かしい顔が次々と浮かんでは、聞き覚えのあるやり取りが実施され、それに伴い発生する数々の難局に対峙した僕は、まるでタイムマシンで過去の世界を覗いた時のように、忠実に過去の出来事を再現し、ままならない結末のたびに、自業自得を悔んだり、理不尽な主張を突き付けた他人を恨んだりしていた。タイムラグは相当なのだが、場面場面で登場する人物一人一人の名前も、表情も、言葉も、驚くほど正確に事の仔細を再現できた。次第に意識がはっきりした僕は、記憶が再び閉ざされないうちに全てを書き残そうと思い立った。こういうときはキーボードの入力ではなく、手書きが相応しい。デスクに置いてあったメモ用紙はすぐに埋め尽くされ、何枚にも渡って自分史を書き殴った。
 こうして振り返ると、学生時代の自分はずいぶんと苦しいことがあったようだ。今になってみれば、どれもこれも小さな出来事に過ぎないが、所属するコミュニティの中では、当時致命的な打撃となっていた。グーグルが存在しない時代は実に悲惨だ。対処法を教えてくれる誰かや本が無ければ、絶望から這い上がる道は絶たれ、音の無い海底でひっそりと獲物を待つ生き物のようにしてやり過ごすか、何もかも擲ちドロップアウトするか、その二択しか残されていないと思ってきた。どこにも居場所もなく、希望を持てず、投げ遣りに生きるしかないと思える人生に一体何の価値があるというのか。あの頃は死を思わない日は一日も無かった。唯一、小説を読んでいるときだけ、世界は美しいと感じることができた。不思議なことに、世の中には、そういう男を放っておけない女性が年上、年下に関わらず少なからずいて、村上春樹の小説の僕のような出来事は時折起こったが、心を開くことなく身を寄せ合って生きられるほど男女は分かりあえるものではなかった。
 書き続けていく内、当時の自分について二つのことに気が付いた。ひとつは、継続する意志の強さ。なんだかんだいって中退することも、部活動や生徒会活動を自主退部することも、自死することもなく、最後までやり通せているのはただただ奇跡でしかない。そんなに辛いならやめればと言ってくれる人は疎か、誰かを信頼し相談しようとすることさえできなかったのだから。思うに、実家ですら居場所ではないと感じていたあの頃の自分が、幽かでも希望を持てる可能性を見出せられるのはやはり学校というコミュニティしかなかったのだと思う。卒業することで、得られるかもしれない「ここではないどこか」で将来活躍するという夢想は、お金も自由もない僕に与えられた最後の砦だったのだろう。もうひとつ気付いたことは、内在する生存機能の強さ。その機能とはすべて忘れるということ。これほど時を経ても思い出せるような辛いことが山のようにあるというのに、これまで思い返したことは卒業以来一度たりともなかった。横浜で暮らすと決まった瞬間、それまで取り巻いてきた悩みや苦しみから一斉に解放され、前だけ見れるように切り替えられた。過去は消すことはできないが、記憶を閉ざすことはできる。事実を思い出しても、負の感情が今の現実を脅かすことはない。人が強く生きられるようにと、脳は都合よく実にアバウトに機能する。なんと素敵なことであろう。そう考えると、沢木耕太郎がかの『深夜特急』で「孤寒」を本来のケチという意味を知らないために、字面だけで自分が孤独で寂しい人生になると言い当てられたと誤解し、そのことを実に美しい文章で綴っていたくだりは、正にそんな脳の機能が齎した名シーンだとつくづく思う。

 

深夜特急1―香港・マカオ―(新潮文庫)

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