言葉に縛られる

1


あの日も雪が舞い降りて、積もりはじめたばかりのそれを踏みしめるたびに
ギュッギュッという鈍い音がした。
僕は別れた彼女のことばかり考えていた。
それは高校3年の冬だった。
初夏に始まったその恋人期間は、翌年の初夏に散っていった。



2


高校2年の初夏。
「海へ行かない?」
なんとなく海を見たくなった僕は、同じ演劇部の女子を誘って、海へ行くことにした。
通っていた学校から15分も歩くと、海はある。
僕は幼い頃からよく父に連れられてそこで潮干狩りや海水浴を楽しんだ。


砂浜は踏みしめるとギュッギュッと音が鳴るので「鳴り砂」として有名だった。
二人で音を奏でながら、波打ち際を並んで歩いた。
テトラポットに腰かけ、日が暮れるまでの何時間もの間、
ほとんど言葉を交わすこともなく潮の流れが少しずつ変化していくさまを眺めた。
ザザーという潮騒と空を駆けるウミネコの鳴き声が聞こえるだけの静かな世界。
夏にはまだ早いとはいえ、その日は僕ら以外は誰も海には居なかった。


帰り道、月明かりと薄暗く疎らな街灯の明かりを頼りに同じように並んで歩いた。
二人ともずっと黙ったままだったが不安はなく、思いが通じ合っているような気さえした。


「あのさ、ひとつ訊いてもいい?」
「いいよ」
「手、繋いでいい?」


そんなことを言うのは生まれて初めてなのに、自然と言葉にできた。
彼女もまた、自然に差し出した手に、その小さな手を重ねた。


そうして、初めての彼女ができた。



3


ほんとうにつまらない意地を張って、僕は「別れよう」と言った。
嫌いになったわけではない。
ただ、少し距離をおきたかった。
彼女は泣いていたように思う。
しかし、電話ではほんとうのところはよく分からなかった。


別れた後も僕はひとりで海へでかけた。
僕の家は学校まで8分、海まで10分のところにあった。
ギュッギュッという音はステレオで奏でるよりモノラルのほうが寂しい響きに聞こえた。
その音をかき消すように、砂浜を歩くときには、きまって歌うようになった。
尾崎豊の歌詞が身近に感じるようになったのはちょうどその頃だった。



4


「ねえ知ってる?」
彼女に新しい恋人ができたという噂を聞いたとき、
その動揺を顔に出さないように最大限に繕って、
「誰かから訊いていたよ」と小さな嘘をついた。
思い出の砂浜を、彼女が別の男子と肩寄せ合って歩くの見たのはその翌日のことだった。


その日も雪が舞い降りて、積もりはじめたばかりのそれを踏みしめるたびに
ギュッギュッという鈍い音がした。
僕は別れた彼女のことばかり考えていた。
僕を好きだと告白してくれた何人かの後輩や同級生の女子と海へ行ってみたが、
あの時のように恋に発展することはなかった。
それは高校3年の冬だった。



5


卒業間近になって、置きっ放しにしていた荷物を取りに部室に行くと、彼女も荷物を取りに来ていた。
ありきたりの話を交わしただけで彼女は立ち去った。
彼女が座っていた椅子をふと見ると、小さく折りたたんだ紙切れが落ちていた。
なんだろうとなにげなく開いてみたら、彼女に宛てた新しい彼からの手紙だった。

「さっき寝ようとしていたのに、窓の外の星を見た瞬間、こうして俺の右手が勝手にこれを書いている。
きっとアダムスキーさんも同じ気持ちになったんだろうね」

まずいものを見てしまったと思ってすぐに元のように折りたたもうとしたが、
あまりのロマンチストぶりについ最初の2行目までを盗み読みしてしまった。
それにしてもアダムスキーって誰のことだ……?星を見た瞬間……。
僕はそこでやっと思い当たった。「アームストロング


それ以来、僕は新しい彼女の恋人のことを心の中で、『アダムスキーの恋人』と呼んでいた。
*1



6


あの手紙を読んで以来、彼の純粋さと天然なところに親しみを感じて、
嫉妬する気持ちも薄れていった。
しかし、彼女を忘れられないことに変わりはなかった。


卒業式の日、人通りの少ない校庭への渡り廊下に彼女を呼び出した。
ここでなんとかしたいといった気負いも計画もなかったが、
気付いたら、半年振りにふたりきりで向き合って立っていた。
なにを話したのだろうか。残念だが本当に思い出せない。
覚えているのは僕が言ったひとことと、ふたりで泣いたことと、
陽射しの強さのせいで、彼女の陰影が夏の日のようにくっきりとしていたことだけだ。


「僕が『一生結婚なんてしない』って言ったのはいけなかったよね。
・・・もし、今度やり直すときには・・・結婚しよう」


その時何故そう言ったのかは自分でもよく分からなかった。
気付くと僕はそう伝えていた。
次の瞬間。
彼女の目から涙が溢れ出していた。
これほど人の目から涙が出るのかと感心するほどだった。
僕にとってもそれは同じで、
今でも、悲しいのに泣けないときにはきまって、
どうしてあの時、あんなに涙が出たのだろうという疑問が、
幾度となく蘇ってくるのだった。



7


「○○君!」
駅で僕の名前を呼ぶ声のほうを向き、その声の主が誰かが分かるまで数秒を要した。
いつか、彼女の住むこの街でばったり逢うときがくるだろうとは予想していた。
しかし、せっかくの再会も、あいにく僕も彼女も友人と一緒だったのでほとんど話せず別れた。
その僅かな邂逅の最後に、彼女は僕に言った。


「わたしね・・・結婚したの」
「へえ、そうなんだ。おめでとう」


すっかり過去の人と見做す、素っ気無い返答をしてしまったことに、
時の流れを確認できた。


その夜眠りにつくときに、はっと気付いた。
そうか。彼女は僕のあの言葉を覚えていたんだね。


僕が誰とも結婚しようと思わなかったのも、
思った以上に、僕はあの言葉に縛られていたのかもしれない。


その夜はいつもより、少しだけぐっすり眠れた。

*1:いうまでもなく「スプートニクの恋人」の“「スプートニク……?」「そういう、ブンガクの流れの名前。よくなんとか派ってあるでしょう。ほら、ちょうど<白樺派>みたいに」 すみれはそこでやっと思い当たった。「ビートニク」”のパロディだが、驚くことに手紙の内容は事実そのままである