失ったようでいて、失わない

清志郎のいない世界で生きていかねばならないことに、心底途方に暮れている。」と角田光代が書いていた。

でも、私は知っている。大好きな音楽家が死んでしまっても――そしてそのときにある意味では、あるひとつの世界は確かに終わりを迎えたのだけど――それでも私たちの生活は、否、私の世界は、なんにも、変わることがないのだと。あるひとつの世界の終わりに私が知ったのは、世界はまるでびくともしないということだ。そして私の暮らしも、七日間くらい泣いたあとは、まるでびくともせず、そして私は疑い始めた。「ほんとうに彼は死んでしまったのだろうか?」と。答えが出せなかった。ほんとうに、なんにも変わらなかったんだから。彼の音楽は、彼が生きていた頃と「まったく同じように」鳴り響いた。再生ボタンを押せば、耳の中に流れ込んだ。いつもとまったく変わらなかった。何もかもが、まったく、前と同じだった。だから私は疑った。「彼はほんとうに死んでしまったのだろうか?」

答えはまだ見つからない。
id:darkglobe - はてなハイク


「おはよう」
いつものようにメールをすれば、
「おはよう!ダーリン」とマッハで返信が返ってくる。
そんな気がしてならなかった。


ひとりで起きて、ひとりで会社に向かう。
ひとりで帰宅し、ひとりで眠りにつく。


なにひとつ変わらない。
昨日と同じ繰り返し。
やることはなにひとつ変わってなんかいない。
変わったのは、たった二つ。
何本かの髪の毛が途中から根元にかけて白く色が変わっていったこと、
そして、いつものメールや電話が来ないこと。


時間が空くようになってから、忘れていたいつくかの子供の頃の記憶
―かくれんぼで遊んだとき、「もういいよ!」という声を聞いたのを最後に、
行方不明になった友達のこと、いじめにあって、休み時間になるたびに、
まっさきに教室を飛び出して、授業が始まるまで、校庭で時間が過ぎるのを、
ただじっと待っていたこと、・・・―
を、ぼんやりと思い出すようになった。


そのうちに、かつて彼女がブログで言及していた本やCD、DVDを買い漁るようになった。
かつては互いに話しあうことに夢中で、彼女の好きなものを知ろうとする余裕がなかった。
買い集めた内の幾つかは衝撃的な作品で、大きな影響を受けた。
彼女が好きなものに囲まれることが今更無意味であると思えば思うほど、
完成間近なジグソーパスルにピースを埋めるように、僕はそれらを必死に探し、買い求めた。


飛行機の予約を取って、東京に彼女に会いに行こうと決めたのは、
“変わった”という事実を確かめたかったからだ。
「さよなら」
面と向かって彼女に別れを告げられたなら、
はっきりと“終わった”と実感できるかもしれない・・・
昔読んだ聖書のことばを思い出す。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」
*1


遠距離恋愛は難しい」と人は言う。
その難しさの最たるものは、破局した後だ。
別れたといったところで、
日常生活がなにか変わるわけではない。
だから、大抵の場合、終わったのだと実感が沸くまでに、
多くの月日を費やすことになる。


「この間は『(逢うことを)考えておく』って返事したけどね・・・その、実は私も色々あって・・・その・・・逢えるほどの心の準備ができてなくて・・・だから・・・ごめんなんさい」
あんなに困ったように、申し訳なさそうに話すのをかつて聞いたことはなかった。
これまではいつだって、雲ひとつない秋の青空のように率直に話していた。
言い訳を並べる彼女の声を聞いてはじめて、取り返しのつかないことをしたのだと気付いた。


終わったんだ。
僕たちの恋は。


必死になって探そうとしたけれど、
ジグソーパスルの最後のひとつのピースを見つけ出せなかった。
完成されないパズルは永遠に壁に飾られることは無い。
ただ、それだけのことだ。


あのとき、逢わないでいてくれた彼女に
今ではとても感謝している。
彼女が自分の保身の為に逢わないようにしたのか、
それとも僕を思ってそうしたのか、
事実がそのどちらであろうと構わない。
彼女の前で涙を見せないで済んだのがなによりよかったと思う。


「見ないのに信じる人は、幸いである」
それを肯定するだけの答えはまだ見つからない。
たしかなことは、彼女が好きだった小説や音楽や映画に
いつでも触れられる、とういうことだ。
それだけが、いまも失わずにいる。