かつてブログを続けることに疑問を感じた頃の話「必要だった沈黙」

11/11日にNHKで放映した「星新一 ショートショート劇場」が出来栄えが良かったとの評を見て、見逃したことを悔やんでいたのだが*1奇妙な世界の片隅で」で「コミック☆星新一午後の恐竜」と「コミック☆星新一空への門」を紹介していた。こちらも面白そうなので購入することに。SFのコミック化の傑作といえば、萩尾望都が描くレイ・ブラッドベリが真っ先に思い浮かぶ。

ウは宇宙船のウ (小学館文庫)

ウは宇宙船のウ (小学館文庫)

萩尾望都「ウは宇宙船のウ」

閑話休題。何年も前のこと。ブログに人が集まり過ぎてしまい、来る日も来る日も、コメントやリンク先のブログ巡回に追われる日々を送ることにふと空しさを覚えた。*2 そこで僕はひとつの実験をした。夏の終わりの或る日を境にブログの更新を一切やめてしまった。更新をしなければ当然コメントは無くなり、訪問者も無くなる。そして、ついには誰も訪れなくなるだろう。そして、もしそうなれば平静にブログを閉じられる。そう思っていた。
しかし、驚くことに訪問者は途絶えることはなかった。もしかしたら今日は更新しているのかもしれない。そういう期待をしているかのようであった(当時はまだRSSが普及していなかったので、更新状況するにはブログにアクセスして確認する人がほとんどであった)。特に閉鎖の予兆もなく唐突に更新を止めたので、もしかしたら病気をしたのかもしれない。もしかしたら既にこの世には…。様々な憶測が書き込みされた。それでも、僕は足跡や書き込みだけをチェックし、更新したり、コメントに返答することも、読者のブログを巡回することもしなかった。
 久々に更新することにしたときは、すっかり雪が積もっていた。相変わらず訪問を続けている人もいるにはいたが、それはよほど熱心な読者かもしくは痛ニューのコメントで1ゲトを狙うような人かのどちらかであろう。その数は極僅かで、ほとんど全ての記事にコメントを残していたような読者も全く来なくなっていた。その再開の記事で書く内容は最初から決めていた。僕の頭にはある小説のイメージがあった。

様々な功績を残したある高名な博士が、私財をなげうち、更に巨額の公的資金の援助を得て作り上げたある装置があった。
 その発表会で「なにもしない装置」であるという博士の説明に、人々は税金の無駄遣いだと非難を浴びせた。しかし博士は「これこそ人類が最も必要としていた、人間的な装置」だとし、批判をものともしなかった。
とても人通りの多い広場に頑強に備え付けられたその装置は、円筒形で、腕が1本あり、へそにあたる部分にはボタンがあった。
人々が見守るなか、好奇心にかられたある一人がボタンを押したところ、腕が動きだし、引っ込んだボタンを引き戻し、また元の腕の位置に戻っただけだった。それ以来、誰がいつ試しても、結果は同じで、“なにも”しなかった。
ところが、なにもしないと分かってはいても、“出っ張ったものを押したくなる”のは人間の習性らしく、そこを通る多くの人や幼い子供までも、ついつい押していくのだった。
腕の動きを止めようとしたり、分解して仕組みを調べようと試みた者もいたが、巨額を投じ開発された特別な材質の装置には全く歯が立たなかった。
やがて博士も死に、何故このような無意味なものを作ったのかを知るものもいなくなった。
多くの月日が流れても、人々はボタンを押したくなる誘惑に負け、ボタンは押され続けた。
しかし、ついにボタンが押されなくなる日がきた。故障したのではなく、誰も押すものがいなくなったのだ。愚かな戦争で、押してはいけないボタンが押され、一瞬で地球上の人間はおろか生物は全て絶滅した。あらゆるものが朽ち果てていく中で、なにもしない装置だけは無傷であった。そして、沈黙の時を静かに待ち続けた。
誰もボタンを押さなくなってから千年が過ぎたことを、装置の内部のカウンターが確認した。それは全世界の人類の滅亡を確認する作業だった。装置は最初で最後の本来の働きをした。人類へ悲しみの言葉を語り、その後、葬送の曲を奏でた。曲が終わると、また元の沈黙が戻った・・・。

以上は、子供の頃読んだ忘れられない短編小説、星新一の「ある装置」の粗筋です。
休止告知することもなく長期に渡り更新していないにも関わらず、今もここを訪れてくださった読者のかたがいることに、僕は驚きと感謝を禁じ得ません。
これは“必要な”沈黙でした。
ブログはこれで完成ということがなく、日々更新されていくものです。先述の行動特性からすれば、今日、よい記事が書けたとしても、更新されれば、どんどん後ろに追いやられ、誰の目にも留まらなくなっていきます。そのため、ブログ管理者が読者を意識し過ぎてしまうと、“最初に読まれる最新の記事をクオリティーの高いものにしよう”と、常によい記事を書き続けなくてはならなくなってしまいます。それを重圧に感じてくると、逃げ出したくなる人もいるのではないでしょうか。
また、これはブログに限らずネットコミュニティ全般にいえますが、身近な人には言えないほどに「落ち込んでいたり、辛かったりしたときに、それを正直に書くことで救われた」(眞鍋かをりさんの言葉)というように、匿名性をうまく活かせば、ブログを書くことが楽しみになります。
一方、匿名性ゆえに、記事の文面を読んだ(一部の)読者の想像上で、実際の感情や性格と違うキャラクターが一人歩きしだすようになると、管理者の真情と(一部の)読者に求められる像との溝が深まり、自分のブログであるにも関わらず、普段着のままの自分の居場所がなくなっていきます。こうした重圧に耐えられなくなった人は燃え尽きていくのではないでしょうか。(※ブログ先進国アメリカでは早くからそうした人が存在していました)
更新を休止した理由。
それは、自分にとってブログはどんな意味があるのかを知りたかったからです。それを知るためには、ブログと程好い距離感を持つことが必要でした。
もし、自分にブログを書くことが必要不可欠であるなら、なにもしないと分かってはいても、“出っ張ったものを押したくなる”人間の習性が、ひとつの装置のボタンをつい押してしまったのと同様に、再びブログを書くであろうと・・・。

*3


最後に。星新一の全作品の中でもとりわけ短く、しかし、強烈な余韻を残す作品を全文掲載する。

「歳月」

誰にでもよくあることだ。若く美しく、何を見ても楽しく、甘くかぐわしい年代のある日。赤い椅子に腰掛けての読書のとき、ふと目にはいった絶望という文字。それが何故か気になり、本を閉じ、あたしにもそれの訪れることがあるのかしらと想像する。そして、未来の自分の絶望にうちひしがれた姿の幻が、いやにはっきりと頭の中に広がってしまう。
 慌てて、それを追い払う。そんなこと、あるはずがないわ。今、こんなに楽しいんだし、これからだって幸福でいっぱいの日々が、永久に続くはずよ。忌まわしい幻は、どこへともなく消えてしまう。
 だが、歳月が経ち、様々なことがあり、信じていたものに裏切られる時がくる。これが絶望なのねと呟く。力なく青ざめた顔で、のけぞるようにベッドの上に倒れる。その瞬間、遠く過ぎ去ったあどけなかった日のことを鮮明に思い出すのだ。あのとき腰掛けていた椅子の色の赤かったことまでも・・・。

*1:2007/12/24から「きまぐれロボット」NTTドコモのiムービーにて配信。原作:星新一/監督:辻川幸一郎/音楽:コーネリアス/出演:浅野忠信、香里菜、夏木マリ

*2:今考えてみるとそれほど訪問者数が多いとはいえないが、まだブログブーム前だった当時から開設している人はmixi黎明期と同様、交流が盛んだった。当時はまだダイヤルアップ接続だったので、毎日50前後のブログを巡回するのは大変だった

*3:※2005/12/17 12:53初出。記事の主張が現在の自分の考えや心境とそぐわない点もあるが、個人史として、当時のままの内容で敢えて掲載